高田繁
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| 東京ヤクルトスワローズ 監督 #88 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 大阪府大阪市住之江区 (鹿児島県生まれ) |
| 生年月日 | 1945年7月24日(64歳) |
| 身長 体重 |
170cm 68kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 外野手、三塁手 |
| プロ入り | 1967年 ドラフト1位 |
| 初出場 | 1968年4月6日 |
| 最終出場 | 1980年10月12日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督・コーチ歴
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この表について
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高田 繁(たかだ しげる、1945年7月24日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手(外野手、三塁手)。
読売ジャイアンツV9時代の外野手として活躍し、引退後は日本ハムファイターズ監督、巨人コーチ、二軍監督を歴任し、2005年度~2007年度は日本ハムのゼネラルマネージャー(GM)を務めた。
2008年から東京ヤクルトスワローズ監督。
目次 |
[編集] 経歴
1961年、浪商高校(現・大阪体育大学浪商高等学校)に入学。1年時、2年生エース尾崎行雄を擁して夏の甲子園に優勝。準決勝では、後にチームメイトとなる柴田勲をエースに擁した法政二高と対戦している。
1964年、明治大学農学部に進学。大学球界を代表する中堅手として活躍した。大学時代はリーグ優勝こそなかったものの、1年秋季から7季連続ベストナインを受賞している。リーグ通算102試合に出場し384打数127安打、打率.331、5本塁打、30打点、48盗塁。127安打と7度のベストナインは今なお六大学野球記録。
[編集] 現役時代
1967年秋、ドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。背番号8。1968年、1年目から左翼手のレギュラーに定着し、打率3割・20盗塁をマークし新人王を獲得、以後、走攻守と三拍子揃った外野手としてV9時代の巨人を支えた。
1975年オフ、日本ハムファイターズから張本勲の移籍で張本本人が左翼手を希望したため、長嶋茂雄監督に三塁手にコンバート通告される[1]。日本プロ野球で初めて外野手から内野手に守備をコンバートされた選手と言われることもあるが、元広島の苑田聡彦の前例がある。
正月返上の猛特訓で三塁守備をものにし、1976年、内野でもレギュラーとして定着、ダイヤモンドグラブ賞も獲得した。外野手、内野手での同賞受賞は史上初。後にロッテの西村徳文も内野手、外野手で受賞するが、外野手→内野手の順での受賞は現在も高田が唯一。
その後、中畑清の台頭や長嶋茂雄監督の解任に伴い、1980年自身初のリーグ最多犠打を記録しながら、35歳の若さで現役引退。引退セレモニーは1980年オフの巨人ファン感謝デーにて王貞治と共に行った。
[編集] 引退後
引退後、1981年~1984年はNHK野球解説者。1985年~1988年は日本ハムファイターズの監督を務めた。初年度は総得点が総失点を上回った歴代のチームの中では史上最低の勝率(.449)を記録したこともあったが、1987年からの2年間でAクラスを確保した。勝率は負け越しており、ずば抜けた実績は残していないが、恵まれていないチーム戦力で、この間、後の“ミスターファイターズ”田中幸雄を見い出し、レギュラーに育て上げている。また津野浩や西崎幸広、松浦宏明など1990年前後のファイターズを支えた主力投手が台頭したのもこの時期である。
退任後は再びNHKの野球解説者を務めた後、1992年、巨人ヘッドコーチ。しかし、藤田元司監督の退任に伴い1年で退団。1993年~1995年、日本テレビ解説者。1996年~2001年は巨人二軍監督。1996年、2000年、そして退任後の翌2002年のペナント優勝に貢献。2002年~2004年、アール・エフ・ラジオ日本野球解説者。
2005年~2007年にかけて、北海道日本ハムファイターズのゼネラルマネージャー(GM)を務めた。2006年にチームは日本シリーズを制し、アジアシリーズでも優勝。アジア一を経験した、日本初のGMとなった。翌2007年も、日本ハム初のパ・リーグ連覇を達成している。編成権を握るチーム統括部などと積極的に会議を繰り返し、現場経験者としての貴重なアドバイスを送り、就任初年度はチーム遠征にも同行した。こうしたフロント改革の成果として、日本ハム優勝の一つの力となった、藤井純一社長・島田チーム統括本部長運用の「選手評価システム」が挙げられる。2005年・2006年のドラフトで獲得したルーキー投手(武田勝、吉川光夫、木下達生ら)の活躍も話題になっている。日本ハムGM職初仕事となったダルビッシュ有の入団交渉に際しては、ダルビッシュの母が現役時代の高田の熱烈なファンであったため、指名の挨拶の斬込み役として交渉をスムーズにしたといわれる。MLBを目指してFA宣言した稲葉篤紀を、米球界からのオファー切れを待つ姿勢を見せて招聘したときも、交渉役を務めている。
[編集] ヤクルト監督
2008年より、東京ヤクルトスワローズの監督に就任。背番号は現役時代の番号を重ね合わせた88。
2007年-2008年シーズンオフに神宮球場が拡張工事されたことで、守備に難のある主砲アレックス・ラミレスを放出。高田率いるヤクルトは機動力を重視し、スモールベースボールを掲げた(球場の特性や主軸の流出からスモールボールに切り替えるパターンは、日本ハムのパターンと似ている)。かつてGMだった日本ハムから川島慶三、押本健彦、橋本義隆、萩原淳が移籍。韓国からは林昌勇、ダニエル・リオスをそれぞれ獲得するなど積極的な補強・選手の入れ替えを行った。また俊足の福地寿樹、巨人を戦力外通告された斉藤宜之を獲得した。
2008年シーズンは福地がリードオフマンとして活躍。またチーム事情で三塁手だった飯原誉士が本職の左翼手に収まり躍進。空いた三塁にはチームリーダーで名手の宮本慎也がコンバートされ、遊撃には宮本の後継者として期待する川島慶三が積極的に試用された。一塁には中盤以降ファームの主砲畠山和洋が起用され結果を残した。福地が42盗塁を記録、盗塁王を獲得したのをはじめ、飯原誉士、青木宣親、川島慶三などの選手が積極的に盗塁することでチーム盗塁数が12球団最多の148を記録。投手陣は前年の勝ち頭セス・グライシンガーが退団、巨人へ移籍。獲得した外国人選手も林を除き活躍しなかったが、前年壊滅状態だった投手スタッフが積極的なメンバー入れ替え、村中恭兵、押本健彦、松岡健一など若手の台頭で整備されたことでチーム防御率も3点台に回復、最下位を脱出し5位となった。この盗塁、ヒットエンドラン、バントなどを積極的に多用し、投手・守備重視の緻密な野球はセ・リーグ4球団に互角かそれ以上の成績を残したが、読売ジャイアンツにのみ6勝18敗と大敗を喫し、クライマックスシリーズ進出を逃した(チーム構築と育成を優先したために前半で見切られたアーロン・ガイエルが巨人戦のみ好調で主砲の役割を果たしていたなど、いくつかの原因が重なっている)。
2008-2009年も積極的に補強に乗り出し、12球団合同トライアウトで中日から森岡良介、ソフトバンクから吉本亮、オリックスから田中祐貴を獲得し、また球団史上初のFA補強選手として横浜から相川亮二を獲得、外国人も韓国から補強ポイントだった左腕の李惠踐、おなじく左腕のリッキー・バレット、野手では長打力強化のためにジェイミー・デントナを獲得、さらに開幕直前に楽天から一場靖弘を宮出隆自とのトレードで獲得した。
また、高田は、板東英二を次期監督の候補として興味を示している(板東のブログから)。8月10日のしゃべくり007では、板東の口から、高田に監督を勧められていることを明かした。また、板東自身もそれを受け入れている。
[編集] プレースタイル
高田はプロ野球史上でも屈指の名左翼手の呼び声が高い。特に得意としたのは外野フェンスに当たった打球がどのようにはね返るかを正確に先読みし、本来なら二塁打となる当たりをシングルヒットにとどめてしまうというプレーで、「壁際の魔術師」と呼ばれた。どの球場においても三塁線を抜いた打球が左翼フェンスのどこに当たり、どの角度で跳ね返るかを把握していた。そしてゴロを捕球した際、今度は二塁ベースがどこにあるか把握できており、目をつぶっても送球できたという。また、クッションボールの正確な処理もさることながら高田自身は「クッションに入れないことを第一に考えた」と語っており、打者のスイングから打球の方向を見極め、常に打球への最短距離を走るように努めたという。その守備範囲の広さ、打球への反応の速さは長嶋茂雄に「オレの後ろにもう一人三塁手がいたようなもの」と言わしめている。ある試合で、田淵幸一の打ち返した打球が長嶋がファウルだと思うほどのライン際で、長嶋が「ファウルだファウルだ」とアピールする中、高田がこの打球を素早く処理し田淵を二塁アウトにし、長嶋が一転して「やっぱりフェア、アウトアウト」とアピールし直したこともあるという。このプレーは田淵も覚えており、「いくら僕が足が遅いといったって、あれは完全な二塁打コース。あれで高田さんに逆らうのはやめよう(一塁にとどまろう)と思った」と語っている。
高田を内野手に転向させたのは長嶋茂雄だが、その長嶋自身が「高田の魅力は内野手より外野手でしょう」と語っている[2]。
当時の巨人はV9時代で、レギュラーもほとんどが固定している中で、厳しい競争を勝ち抜きレギュラーを勝ち取った。その一方で選手の信望も厚かったという。当時の監督の川上哲治は高田について「実にスマートな生き方をした選手。自分勝手に気ままにやりながら誰からも憎まれも嫌われもせず、逆に良く好かれていた。努力も相当したんだろうけど、彼には努力の跡はまるで感じられず、ただいい選手だったと言う事だけが強く残っている」と語っている。
一方、バッティングは強烈な引っ張りが特徴で、レフト線への強烈な打球がファールになることが多く、「高田ファール」と名付けられるほどだった。打撃コーチだった荒川博は打球の方向を修正するためにかなり苦心したが、結局直らなかったという。荒川は「言われたことは何でも『ハイ!』と素直に聞いてくれたが、試合になると結局元に戻っていた。もしかしたら守備に比べたらあまりまじめに取り組んでいなかったんじゃないかな」と語っている。
1980年に引退した際、「イメージと捕球位置との間、20センチぐらいの誤差が出るようになりました。プロとしては失格ですよ」と述べている。高田と同じく34歳で開幕を迎えたシーズンで引退した新庄剛志の引退理由とやや似ている。
[編集] 人物
大阪市立加賀屋中学校時代は成績優秀であったため、当初は大阪府立岸和田高等学校への進学を希望していた。しかし、野球をしたいために途中で志望を変更し、最終的には浪商高校への入学を決めた。
大学時代は、明治の「御大」こと島岡吉郎監督にもっとも可愛がられた優等生であった。主将を務めていた時期も、鉄拳制裁も辞さないスパルタ教育で知られた島岡に、一度も殴られなかったという。荒くれ者揃いで知られる浪商高出身であるからか、紳士的な外見からは想像できないほどの武闘派であった。大学の1年後輩であり乱闘で有名な星野仙一(後の中日・阪神監督)が、全く頭の上がらない人物の一人である。近眼で、大学時代からコンタクトレンズを愛用していた。しかし、目が悪いことを誰にも話しておらず、周囲の人間はもちろん、寮で同室だった星野や、キャプテン時代ほとんど行動を共にしていた島岡監督も知らなかった。卒業直前、何気なくコンタクトを外した高田を見た島岡から「いつからコンタクトをはめていた?」の問いに「大学1年の春からです」と答えた。これを聞いた島岡は驚きのあまり座っていた椅子から転げ落ちた。
近年はカラフルなグローブを利用する選手が多いが、1970年代後半期においては茶色のグラブ以外の選手はまずいなかった。そんな中で高田は青いグラブを愛用し、アドバイザリースタッフ契約しているミズノ(当時は美津濃スポーツ)では”高田モデル”という青のグラブが凄く人気であった。1976年、巨人に移籍してきた張本勲に対して「巨人では俺の方が先輩」という理由で対等に口をきいた。張本は高田の出身校・浪商高の大先輩にあたり、また当時パ・リーグの暴れ者として知られた日本ハムの中でも、特に一目置かれる存在であった。高田の芯の強さを示すエピソードの一つである。
漫画『巨人の星』では、星飛雄馬や伴宙太らフィクションの1967年入団選手と同期である。星飛雄馬は高田と初対面のとき、ルーキーの高田のことを「盗塁では柴田勲のライバル、新人王争いでは花形満のライバルになるだろう」と評している。
グレープが1975年にリリースした「朝刊」という歌に、「高田の背番号も知らないくせに」という一節がある(ちなみに作詞・作曲したさだまさしはヤクルトファンである)。
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1968 | 巨人 | 120 | 404 | 346 | 75 | 104 | 19 | 9 | 9 | 168 | 30 | 23 | 7 | 10 | 1 | 35 | 0 | 12 | 60 | 1 | .301 | .383 | .486 | .869 |
| 1969 | 120 | 525 | 462 | 70 | 136 | 23 | 3 | 12 | 201 | 46 | 12 | 12 | 6 | 5 | 37 | 0 | 15 | 67 | 4 | .294 | .362 | .435 | .797 | |
| 1970 | 130 | 569 | 519 | 85 | 136 | 24 | 0 | 10 | 190 | 26 | 24 | 5 | 2 | 1 | 41 | 1 | 6 | 45 | 3 | .262 | .323 | .366 | .689 | |
| 1971 | 127 | 535 | 477 | 74 | 129 | 26 | 2 | 11 | 192 | 51 | 38 | 8 | 14 | 3 | 33 | 1 | 8 | 42 | 5 | .270 | .326 | .403 | .729 | |
| 1972 | 128 | 557 | 488 | 84 | 137 | 19 | 3 | 19 | 219 | 62 | 19 | 10 | 8 | 2 | 52 | 1 | 7 | 34 | 10 | .281 | .357 | .449 | .806 | |
| 1973 | 121 | 428 | 375 | 67 | 94 | 18 | 1 | 14 | 156 | 42 | 18 | 1 | 14 | 5 | 30 | 0 | 4 | 34 | 6 | .251 | .309 | .416 | .725 | |
| 1974 | 121 | 374 | 333 | 53 | 84 | 10 | 2 | 12 | 134 | 30 | 9 | 9 | 2 | 2 | 31 | 0 | 6 | 33 | 4 | .252 | .325 | .402 | .727 | |
| 1975 | 123 | 386 | 332 | 49 | 78 | 16 | 3 | 6 | 118 | 31 | 9 | 3 | 8 | 3 | 36 | 0 | 7 | 41 | 6 | .235 | .320 | .355 | .675 | |
| 1976 | 118 | 492 | 430 | 84 | 131 | 22 | 3 | 13 | 198 | 58 | 17 | 2 | 25 | 3 | 28 | 1 | 6 | 24 | 7 | .305 | .353 | .460 | .813 | |
| 1977 | 127 | 554 | 473 | 81 | 140 | 22 | 2 | 17 | 217 | 65 | 11 | 6 | 32 | 6 | 40 | 1 | 3 | 42 | 6 | .296 | .351 | .459 | .810 | |
| 1978 | 100 | 411 | 349 | 48 | 97 | 15 | 2 | 5 | 131 | 31 | 11 | 3 | 17 | 4 | 38 | 1 | 3 | 25 | 4 | .278 | .350 | .375 | .725 | |
| 1979 | 96 | 355 | 316 | 48 | 87 | 10 | 2 | 8 | 125 | 21 | 6 | 3 | 12 | 1 | 23 | 0 | 3 | 33 | 5 | .275 | .329 | .396 | .725 | |
| 1980 | 81 | 209 | 164 | 20 | 31 | 5 | 0 | 3 | 45 | 6 | 3 | 2 | 22 | 2 | 17 | 0 | 4 | 14 | 6 | .189 | .278 | .274 | .552 | |
| 通算:13年 | 1512 | 5799 | 5064 | 838 | 1384 | 229 | 32 | 139 | 2094 | 499 | 200 | 71 | 172 | 38 | 441 | 6 | 84 | 494 | 67 | .273 | .339 | .414 | .753 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] タイトル・表彰・記録
- 新人王 (1968年)
- 盗塁王:1回 (1971年)
- ベストナイン:4回 (1969年~1972年、外野手)
- ダイヤモンドグラブ賞:6回 (外野手として1972年~1975年の4回、三塁手として1976年~1977年の2回。外野手・内野手の双方での受賞は史上初、外野手→内野手の順での受賞は史上唯一)
- 日本シリーズMVP:1回 (1968年、新人選手の受賞は1960年の近藤昭仁に続く2人目)
- オールスターゲーム出場:8回 (1968年~1973年、1975年、1976年)
- 1試合6安打 (1974年5月10日、セ・リーグタイ記録)
- 通算1000試合出場 1976年4月16日(185人目)
[編集] 監督としてのチーム成績
- 表中の太字はリーグ最高の数字
| 年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1985年 | 日本ハム | 5位 | 130 | 53 | 65 | 12 | .449 | 23 | 169 | .265 | 4.36 | 40歳 |
| 1986年 | 5位 | 130 | 57 | 65 | 8 | .467 | 13.5 | 151 | .262 | 4.10 | 41歳 | |
| 1987年 | 3位 | 130 | 63 | 60 | 7 | .512 | 11.5 | 128 | .259 | 3.96 | 42歳 | |
| 1988年 | 3位 | 130 | 62 | 65 | 3 | .488 | 12.5 | 101 | .245 | 3.12 | 43歳 | |
| 2008年 | ヤクルト | 5位 | 144 | 66 | 74 | 4 | .471 | 17.5 | 83 | .266 | 3.75 | 63歳 |
| 2009年 | 3位 | 144 | 71 | 72 | 1 | .497 | 22 | 116 | .259 | 3.97 | 64歳 | |
| 通算 | 808 | 372 | 401 | 35 | .481 | Aクラス3回、Bクラス3回 | ||||||
※1985年から1996年までは130試合制
[編集] 背番号
- 8 (1968年 - 1980年)
- 80 (1985年 - 1988年)
- 72 (1992年)
- 78 (1996年 - 2001年)
- 88 (2008年 - )
[編集] 関連項目
- 大阪府出身の人物一覧
- 読売ジャイアンツの選手一覧
- グレープ…さだまさしと吉田正美のフォークデュオ。さだ作詩・作曲の『朝刊』という歌の中で登場する。当時からの人気を思わせる。
[編集] 脚注
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