KONISHIKI

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KONISHIKI(2006年)

KONISHIKIコニシキ1963年12月31日 - )は、アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島出身で高砂部屋所属の元大相撲力士、株式会社ケーピー所属のタレント

本名および四股名小錦八十吉(こにしき やそきち)、旧姓は塩田。旧名はサレバ・ファウリ・アティサノエ(Saleva'a Fuauli Atisano'e)。最高位は大関横綱を含む幕内力士としては3人目の小錦だが、本人いわく小錦は自分で6代目だそうである(十両以下を含めて「小錦」を名乗った力士が6人いるということ)。

生粋のハワイアンではなく、両親はサモアからの移民(ただしポリネシア人の身体形質・言語上の同質性は極めて高い)。10人兄弟の8番目。兄にアントニオ猪木と格闘技戦で戦ったこともあるアノアロ・アティサノエ。血液型はAB型、星座は山羊座、身長187cm、体重285kg(現役時代の最高値)。愛称は帰化前の本名から由来するサリー

親族の中にアメリカのヒップホップグループ、Boo Yaa T.R.I.B.Eのメンバーが居る。

目次

[編集] 来歴

小錦八十吉
1996年5月、現役時代の小錦八十吉
四股名 小錦 八十吉
本名 小錦八十吉
Saleva'a Fuauli Atisano'e
生年月日 1963年12月31日
出身 ハワイ州オアフ島
身長 184cm(現役時代)
体重 285kg(現役時代)
所属部屋 高砂部屋
成績
現在の番付 引退
最高位 大関
生涯戦歴 733勝498敗95休(93場所)
幕内戦歴 649勝476敗89休(81場所)
優勝 幕内最高優勝3回
十両優勝2回
序二段優勝1回
序の口優勝1回
殊勲賞4回、敢闘賞5回、技能賞1回
データ
初土俵 1982年7月場所
入幕 1984年7月場所
引退 1997年11月場所
備考
金星2個(千代の富士隆の里
2007年10月2日現在
  

元大関で現役引退後は当初、年寄佐ノ山を襲名し高砂部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、人気者だったため、タレントに転向。芸名四股名をローマ字にしたものである。「小錦八十吉」は髙砂部屋の由緒ある四股名であり芸名としての使用は許可されなかった。その代わり、ローマ字の「KONISHIKIは?」と聞かれて、ローマ字ならOKと許可が下りた。なお、この時点での名字は「塩田」であり、「小錦」と改姓したのはその後、前妻と離婚し再婚した後である。芸名としては認められなかったが本名としては認められた。

[編集] 入門~「ハワイの黒船」

サモア系移民の家庭に生まれ、貧しいながらも敬虔なクリスチャンである厳格な両親の元で育てられた。高校時代はアメリカンフットボール重量挙げで活躍した。本人は弁護士を志していたようだが、高見山にスカウトされて昭和57年高砂部屋に入門。初土俵は同年7月場所。新弟子検査では体重計の目盛を振り切ってしまい、急遽もう1台用意して脚を片方ずつ乗せて測定(1台では150kgまでしか測れなかった、105kg+70kgと記録されている)したり腕が太すぎて血圧計が使えないなどの破格振りを示した。

入門すると高砂親方(元横綱朝潮)に押し相撲の基礎を教え込まれる。若い頃は髙見山に稽古をつけられ言葉や習慣の違いについても相談相手になってもらうなどいろいろと世話になったという。また、水戸泉もよき理解者で、水戸泉が優勝した場所自ら優勝旗手を務めた際に明らかになった。小錦も昇進後は後輩の外国出身力士の面倒をよく見たといい、部屋の後輩南海龍の酒癖を大層心配して、飲みに行った際南海龍が席を立った隙に酒とウーロン茶をすり替えてしまったというエピソードなどが伝わっている。後の横綱武蔵丸は入門当初から目をかけられており、ウエイトトレーニング器具を買ってもらうなどしたこともあるという。

入幕2場所目の1984年(昭和59年)9月場所、前頭6枚目の地位で千代の富士隆の里から金星を奪うなど上位陣をなぎ倒し12勝3敗、殊勲賞敢闘賞を獲得し「黒船来航(襲来とも)」「小錦旋風(台風とも)」と恐れられた(千秋楽で大関琴風に敗れたため13勝2敗の平幕多賀竜が優勝した)。この頃が最強だったという見方は根強い。また、この場所で小錦に一方的に敗れたのに発奮した千代の富士は稽古に励んで低迷を脱しており、千代の富士が優勝31回の大横綱となる上で小錦が与えた衝撃は大きな役割を果たしている。一方で、その猪突猛進な取り口や、地元紙のインタビューで発言したとされる「相撲は喧嘩だ」発言等の過激な発言も「品格に欠ける」として一部で物議を醸し、当時の協会幹部の一人は「あの黒ンボだけは横綱にするな」と発言したという説がある他、小坂秀二に至っては「小錦は二場所連続優勝でも横綱にすべきではない」と雑誌の連載で表明していたほどであった[要出典]1986年(昭和61年)1月場所小結で10勝、3月場所同じく小結で12勝を挙げ、大関を懸けた5月場所(この場所は関脇)、当時大関の北尾との対戦で取り直しの一番で小錦がつり上げようとした所で北尾が鯖折りをかけ、両者合わせて400kg以上の体重が小錦の右膝に集中、耐えきれずに骨折した(この相撲を観戦していた人によると「膝が折れる音が内に響き渡った」)。その後もこの負傷はついに完治せず後遺症に苦しんで、好不調の波が大きくなり、大相撲史上最重量のその身体(当時約240kg)をむしろ持てあますことが多くなった。プッシュ戦法がツボにはまれば無敵だが、一歩間違うと驚くほどもろいという土俵の繰り返しだった。膝の故障でどうしても稽古を減らさざるを得ず、それが体重を増やし余計に膝を悪化させる悪循環になったという。

なおそれから一年後の1987年(昭和62年)3月場所では、当時気鋭の大関であった北天佑との対戦で、皮肉にも北天佑の膝にのしかかる形で致命的な負傷を負わせている。取り直しの一番では、北天佑が膝のケガを痛がっているのを察し、ケガを庇いながらそっと寄り切るという内容で勝利、翌日から北天佑は休場した。

[編集] 大関昇進

1987年5月場所後に小錦は念願だった大関昇進を果たし、外国出身力士としては史上初めての大関誕生となった(同時に大関北勝海も横綱に昇進)。それから横綱を期待されたものの、膝の故障の影響で1988年(昭和63年)9月場所は3勝12敗という大敗を喫し、その直後には面倒を見ていた弟弟子の南海龍が飲酒をめぐるトラブルから廃業し、師匠の高砂親方が死去するなど身辺でも不幸が相次いだ。1989年(平成元年)9月場所にも5勝10敗と負け越し。しかし次の11月場所は絶好調、初日から8連勝して角番脱出、12日目に北勝海に敗戦となり連勝は11でストップしたが、最後まで優勝を争った千代の富士には、13日目の直接対決で勝利する。そして千秋楽では琴ヶ梅に勝って14勝1敗、ようやく悲願だった幕内初優勝を果たす。小錦は髙見山に次いで、史上2人目の外国出身の優勝力士となった。

初優勝を決めた瞬間、小錦は勝ち残りの土俵下で思わず涙を流した。当時のマスコミはその小錦の涙を「歓喜にむせぶ男泣き」と報道したが、実はそれは嬉し泣きではなかった。小錦は引退後に「何故もっと早く優勝できなかったのか」と、余りの悔しさで思わず泣いてしまったのだ、と説明していた。このコメントは有名なエピソードである。

1991年(平成3年)11月場所は13勝2敗で優勝。翌1992年(平成4年)1月場所は12勝3敗、さらに次の3月場所は13勝2敗で優勝。この成績でも横綱にさせてもらえなかった。3月場所後、「自分が横綱になれないのは人種差別があるからだ、もし日本人ならとっくに横綱になっているはずだ」という趣旨の記事がニューヨーク・タイムズに掲載された。また、日本経済新聞にも「小錦が横綱になれないのは、人種差別のせいだ。」といった趣旨の記事が掲載された。これらの件に関し、小錦はニューヨーク・タイムズの記事については小錦自身では無く、自身の付き人である幕下力士・高竜(ハワイ出身)が電話で答えたものであり、日本経済新聞の記事についても「人種差別とはいっていない。」と弁明した。しかし、これらの新聞記事の掲載対象となった発言が小錦自身によるものではないかという疑惑からバッシングが発生し横綱どころではなくなり、兎にも角にも謝罪する事態に至った。

その後はショックの影響もあったのか、翌5月場所以降は成績が下降し、最後まで優勝争いに加わる事は無くなった。そして1993年(平成5年)9月場所で途中休場、同年11月場所に角番で6勝9敗と、2場所連続で負け越した為に、ついに在位39場所で大関から陥落した。その陥落が決まった同場所13日目の対戦相手は、奇しくもハワイ出身の後輩だった当時横綱のであった(曙は「先輩の大関陥落が決まる日に当たりたくなかった。余りに辛い恩返しです」と語った)。

晩年には突っ張ろうにも足が出なくなっていたため、威力がなく前に落ちやすいので、相手を捕まえて自分の正面に固定して少しずつ運ぶという取り口になっていた。

10勝以上の場所は33場所と、最高位が大関の力士としては最多、歴代横綱と比しても中位に位置する。優勝も3回と、戦後最強大関の一人であることは間違いない。しかし大関時代の勝率を見ると、同時代の霧島のほうが大関在位は短い(16場所)とはいえ僅かに上回っている。

[編集] 大関陥落後

1994年(平成6年)1月場所の関脇の地位で、10勝以上の成績を挙げれば大関に復活できたが、初日から8連敗でストレートの負け越し決定、結局2勝13敗に終わり皆勤場所では自己ワーストの成績となってしまった。次の同年3月場所は、1986年9月場所以来7年半ぶりの平幕(前頭9枚目)に下がったが、8勝7敗と4場所振りに勝ち越しを決めた。その後平幕上位に復活する事は何度かあったものの、三役(関脇・小結)以上への復帰は果たせなかった。

それでも大関時代の小錦はどちらかと言えば、兄弟、琴錦ら後進(特に大関候補)に対する憎まれ役を演じ続けていた。しかし大関を陥落してからその後、さらに幕尻近くまで落ちても現役に執着するその姿は、最盛期にも勝る人気を得た。特に同じく大関を陥落していた霧島との対戦は小錦の突っ張りか、霧島の投げか目が離せないほどのライバル関係にあり、それは北の湖輪島に似たものがあった。その良きライバルの霧島との通算成績は、38回対戦して19勝19敗の全くの五分であった。また土俵上だけでなく悩みがあったときには、この2人は励まし合っていたという。今でも霧島(現・陸奥親方)とは大の仲良しである。また、ハワイ出身の後輩であり横綱に昇進した曙と武蔵丸は、新弟子時代から小錦を大変尊敬していたそうである。

さらに、舞の海との体重差約200キロの異色対戦も話題になった。一度1996年(平成8年)7月場所の幕内での対戦で、舞の海が勝ちながらも、膝に小錦の体重がまともに圧し掛かり、大ケガをしてしまった。その後舞の海は休場し十両に陥落したが、ずっと心配していたそうで1997年(平成9年)5月場所で舞の海が幕内に復帰した時、自分の事のように大変喜んだという。

前頭2枚目まで復帰した1997年(平成9年)9月場所の11日目横綱貴乃花戦では、その場所全敗(途中休場分含む)していたものの、立合いと同時に貴乃花を押し込み、土俵際まで追い詰めた。しかし貴乃花の土俵際からの上手投げに小錦は思わず横転し、惜しくも金星獲得を逃したものの、館内は敗れ去った小錦に万雷の喝采を送っていた。

引退前には怪我のため痛み止め薬を一日10錠飲んでいた。それが災いし、巡業先で下血をした。その後、体内のを40%失ったが何とか一命をとりとめた。なおこの時は風邪による体調不良のため休場と公表していた。

[編集] 現役引退

そして幕尻に近い東前頭14枚目で迎えた1997年11月場所、本人はこの場所限りで勝ち越しても引退することを決め、千秋楽にはハワイにいる家族を招待していた。13日目に琴の若に敗れて負け越しが決まると、取組後に高砂親方(元小結富士錦)が引退を示唆した。本人は千秋楽まで土俵に上がる意向で、最後の千秋楽の土俵のためにハワイから家族を呼び寄せたりもしていたが、「死に体で土俵に上がることはできない」という境川理事長(元横綱佐田の山)の意見で引退することになった。引退後は取得していた年寄株を使用して年寄「佐ノ山」を襲名ししばらく高砂部屋付きの親方として協会に残ったが、短期間で退職した。

廻しの色は当初は水色、後に黒であったが、後年は水色に戻していた。

2007年6月まで、東京新聞夕刊紙上にて「この道」を執筆、横綱昇進問題や南海龍事件など現役時代のエピソードを含めた自分史を自ら語り、今後の進路として音楽プロデューサーの道を歩むことを明かした。

現役中からボランティア活動にも積極的に取り組み、阪神・淡路大震災の復興支援などを行った。1997年には「KONISHIKI基金」を設立し、ハワイの子どもへの就学援助や日本との文化交流に力を注いでいる。

横綱にはなれなかったが、その存在感・人気は横綱クラスで、人格者として角界の人気・地位を向上させたことは疑う余地がない。また、初めて外国人大関となった小錦の立派な人格が、外国人力士の評価を高める上で大きく役立ったことも高く評価されている。

[編集] エピソード

  • 現役時代、ギネスブックの相撲の項目で「最も体重の重いプロスポーツ選手」と紹介されていた。
  • 幕内に昇進した当時、(小錦よりは)体格が小柄な大錦という力士がおり、対戦時には「大きな小錦と小さな大錦」等と紹介されることもあった(ただし身長は大錦が186センチと小錦より2センチ大きい)。
  • 1998年(平成10年)5月場所後の引退相撲では、小錦最後の取組が行われ、その対戦相手は小錦らと同じ「花のサンパチ組」の寺尾だった。小錦が現役最後の場所となった1997年11月場所、千秋楽の対戦は寺尾と一旦決まっていたが、先述の通り境川理事長の「死に体で土俵に上がるのは許されない」という理由により、14日目の三杉里戦は不戦敗、千秋楽の寺尾戦は割り返されて幻となってしまった。その後小錦は、引退相撲で寺尾と最後の対戦を申し入れ、心残りだった寺尾も承諾。そしてその取組では、小錦が寺尾を押し出しての勝利となったが、その取組の後土俵上で小錦と寺尾はがっちりと握手を交わしていた(それ以前にも寺尾は、北勝海と琴ヶ梅の引退相撲で二人共に、最後の取組相手として指名されて勝負していた)。
  • 現役時代からそのキャラクターは際立っており、乾電池のCMに出演するなどしてTVへの露出は多かった(なお、大関時代に力士のCM出演が禁止されており、それがなければもっと露出は多くなっていたとされる)。
  • 現役時、エアロスミスのアルバム『Big Ones』の裏ジャケットに小錦の取り組み前の姿を正面から撮影した写真が使用され、日本相撲協会から事情を聴取された事がある。
  • 風雲たけし城の「コニシキ君」、漫画『スクラップ三太夫』の「スモウロボ」、『武天のカイト』の「ビッグ・ダディ」、『ああ播磨灘』の「富嶽」など小錦をモデルとする、モデルとすると思われるキャラクターは多い。
  • 北天佑が逝去した際、その弔問にアロハシャツ姿で現れた。なお、アロハは出身地のハワイの正装であるが、日本では「リゾート着」として着用されることが多いために、「礼儀を欠く」と勘違いするものも多かったが、日本相撲協会退職後という事や、ハワイの正装であるということが伝わったこともあり批判は起きなかった(ちなみにハワイでの葬儀の習慣は男性はアロハ、女性はムームーが一般的で、黒い喪服は絶無ではないがそれほど使われない)。
  • また、北天佑とは結果的には同時代の大関となったが、現役時代は最大の苦手であったとされる。小錦が北天佑より番付下位の時代だったが、小錦は北天佑から初顔以来6連敗を喫した。勝った「取り直し」の相撲も、前述したとおり「物言いの一番」で北天佑を負傷させてのものであった
  • 中央競馬の馬券の券種である拡大馬番連勝複式の愛称が「ワイド」に決まった際に、その体型にちなんでCMキャラクターとして採用される。なお、後年中央競馬会で「21世紀の名馬」を著名人に挙げてもらった際には、同じ外国出身の馬であるエルコンドルパサーを挙げている(ただしこれは自分がプレゼンターを勤めたレースの勝利馬であるということも影響していると思われる)。
  • あるテレビ番組でアメフト用ボールを穴をめがけて投げる企画でほぼ全部成功させていた。アメフトの実力がプロクラスであることを証明していた(ちなみにアメフトのゲスト解説をしていたこともある)。
  • 国技館に常設されている力士専用トイレの個室便器は、彼が使用すると小さすぎた為に、後に陶器メーカーに特注することになったといわれている。
  • ゴルフをした時に最初はゴルフシャツを着ていたが、途中で日焼けの痕が残ることを気にして裸になってプレーした(「クイズダービー」第597回(1987年7月4日放送分)の5問目より)。
  • 同郷のプロ野球選手ベニー・アグバヤニ(現千葉ロッテマリーンズ)と親交がある。
  • 2009年6月22日にゲスト出演した日本テレビ系列おもいっきりDON!にて、自身の宝物として、カール・ルイスのサイン入りNIKE製の陸上競技用スパイクを披露し、1991年の世界陸上東京大会にて、9.86の世界新記録を達成したスパイクを、その場で頂いたものである説明した。しかしながら、1985年以降、カール・ルイスはミズノと契約し、該当、世界陸上においても、当然ミズノ製スパイクで世界新記録を達成している。また、該当大会においては、レース前後とも、スパイクは国際陸上競技連盟による、検査を受ける為、第三者に譲渡することは不可能である。日本テレビは該当大会の独占放送を行っていた為、当時のレースの模様も放送したが、1991年当時には、カール・ルイスの足元から、ランバードのデザイン入りのスパイクを映していたにも係らず、おもいっきりDON!では、カール・ルイスの足元は写すことはなかった。当時、ミズノ社が行ったスパイク開発をNHKプロジェクトX〜挑戦者たち〜の第8回放送「カール・ルイスの魔法の靴 超軽量シューズ・若手社員の闘い」にて 特集している。KONISHIKIが所持するスパイクは、1984年ロサンゼルスオリンピック時のNIKE製カール・ルイスモデルと思われる。

[編集] 減量

相撲協会退職後はたびたびテレビ番組の企画でダイエットに挑戦したが、減量とリバウンドの繰り返しであった。2008年2月、ついに体重が300kgを超え、現役時代に傷めた膝を手術するにも支障がでることから、胃の縮小手術を受け[1]、3ヶ月で70kg減量し230kgになった[2]。2009年7月には174kgまで減量し[3]、それまでは座って行っていたコンサートでの歌唱も立って行うことが可能になった[4]。さらに、減量によって余剰となった皮膚の切除を決意するものの、脈が1分間に38しかないスポーツ心臓の持ち主だったため、術中術後管理の困難さから手術を承諾する病院捜しに難航するも、結局10時間を費やす大手術によって21kg分を切除したことによって体重は160kgとなり、既製服も着ることができるようになった。

最終目標は130kgに設定している。現在本人は至って健康体であるが、あまりに急激に減量したためからか、他人からは「どこか具合でも悪いのですか?」と心配する声も多いという。

[編集] 略歴

  • 1982年 髙砂部屋へ入門。
  • 1983年11月 新十両。
  • 1984年7月 新入幕。
  • 1987年7月 大関昇進。
  • 1989年11月 14勝1敗で、初優勝。
  • 1991年11月13勝2敗で、2度目の優勝。
  • 1992年3月 4人による優勝争いで、千秋楽に2敗同士の大関霧島との相星決戦を寄り倒しで勝って3回目の優勝。この場所も13勝2敗。
  • 1993年11月 大関陥落。
  • 1997年11月 引退。通算成績 1222戦 733勝・489敗。優勝3回。引退後、年寄佐ノ山を襲名。
  • 1998年 日本相撲協会を退職し、タレントへ。現在に至る。

[編集] 幕内での場所別成績

小錦八十吉
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1982年
(昭和57年)
x x x (前相撲) 東 序ノ口 #32
7–0
 
西 序二段 #56
7–0
 
1983年
(昭和58年)
西 三段目 #50
6–1
 
西 三段目 #2
6–1
 
西 幕下 #28
6–1
 
西 幕下 #8
4–3
 
東 幕下 #6
6–1
 
西 十両 #12
11–4
 
1984年
(昭和59年)
東 十両 #3
4–5–6
 
西 十両 #10
13–2
 
東 十両 #2
11–4
 
東 前頭 #11
8–7
 
西 前頭 #6
12–3
西 関脇
5–6–4[5]
 
1985年
(昭和60年)
西 前頭 #1
6–9
 
西 前頭 #3
8–7
 
西 小結
12–3
西 関脇
9–6
 
休場 西 前頭 #9
11–4
1986年
(昭和61年)
西 小結
10–5
 
東 小結
12–3
西 関脇
3–6–6[5]
 
休場 東 前頭 #4
12–3
西 関脇
10–5
1987年
(昭和62年)
東 関脇
10–5
東 関脇
11–4
 
東 関脇
12–3
 
西 大関
9–6
 
西 大関
12–3
 
東 大関
8–7
 
1988年
(昭和63年)
東 張出大関
13–2
 
西 大関
8–7
 
西 大関
8–7
 
西 大関
8–7
 
東 張出大関
3–12
 
西 張出大関
10–5[6]
 
1989年
(平成元年)
東 張出大関
3–9–3[5]
 
西 張出大関
10–5
 
西 張出大関
9–6
 
西 張出大関
8–7
 
西 張出大関
5–10
 
西 張出大関
14–1[6]
 
1990年
(平成2年)
東 大関
10–5
 
東 大関
13–2[7]
 
東 大関
12–3
 
西 大関
10–5
 
東 大関
9–6
 
西 大関
10–5
 
1991年
(平成3年)
西 大関
0–1–14[5]
 
西 大関
9–6[6]
 
東 大関
14–1[8]
 
東 大関
12–3
 
東 大関
11–4
 
西 大関
13–2
 
1992年
(平成4年)
東 大関
12–3
 
東 大関
13–2
 
東 大関
9–6
 
西 大関
10–5
 
西 大関
9–6
 
東 大関
0–2–13[5]
 
1993年
(平成5年)
西 大関
10–5[6]
 
西 大関
9–6
 
西 大関
7–8
 
西 大関
9–6[6]
 
東 張出大関
0–2–13[5]
 
東 張出大関
6–9[6]
 
1994年
(平成6年)
西 張出関脇
2–13
 
東 前頭 #9
8–7
 
東 前頭 #5
5–10
 
東 前頭 #12
8–7
 
東 前頭 #10
8–7
 
東 前頭 #5
6–9
 
1995年
(平成7年)
西 前頭 #8
8–7
 
東 前頭 #3
5–10
 
西 前頭 #7
5–10
 
西 前頭 #13
9–6
 
東 前頭 #5
5–10
 
西 前頭 #10
8–7
 
1996年
(平成8年)
東 前頭 #8
7–8
 
西 前頭 #9
6–9
 
東 前頭 #14
10–5
 
西 前頭 #8
8–7
 
東 前頭 #4
4–11
 
東 前頭 #9
6–9
 
1997年
(平成9年)
東 前頭 #13
8–7
 
西 前頭 #10
6–7–2[5]
 
東 前頭 #14
8–7
 
西 前頭 #9
8–7
 
西 前頭 #2
0–11–4[5]
 
東 前頭 #14
引退
5–9–1
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 十両・幕下

三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口

幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

[編集] 主な成績

  • 通算成績:733勝498敗95休
  • 幕内成績:649勝476敗89休
  • 幕内在位:81場所
    • 大関在位:39場所(歴代当時3位・現在5位)
  • 幕内最高優勝:3回
  • 三賞:殊勲賞4回、敢闘賞5回、技能賞1回
  • 金星:2個(千代の富士1個、隆の里1個)
  • 各段優勝:十両2回(2場所連続)、序二段1回、序ノ口1回
    • 序ノ口優勝と序二段優勝は2場所連続での記録

[編集] ミュージシャンとしての活動

2000年3月にデビューアルバムの『KMS』を発表。このタイトルは「King Master of Sumo」から名づけられている。アメリカのクリーヴランドを本拠地とするラップグループ、ボーン・サグズン・ハーモニーen:Bone Thugs n Harmony)のメンバー、レイジー・ボーン(Layzie Bone)を迎えた楽曲リビン・ライク・キングスではラップを披露している。

2002年3月に公開された映画ドラえもんのび太とロボット王国の主題歌を担当した。

2002年7月にサザンオールスターズのベーシストの関口和之と共に「関口和之 featuring KONISHIKI」名義でマキシシングル『私の青空~MY BLUE HEAVEN~』を発売。スタンダード・ナンバーのカヴァーで、関口はウクレレを、KONISHIKIはヴォーカルを担当。

また、2003年のアニメである星のカービィの後期エンディングテーマである「カービィ☆ステップ!」が使用された(ちなみに前期EDは、シャンチーの「きほんはまる」である)。

[編集] テレビでの活動

現在は、NHK教育テレビの平日午前8時・午後4時50分から10分間放送される小児向け教育番組『にほんごであそぼ』にも、『コニちゃん』の名で出演している。微笑ましい姿で子供たちからの人気も高い。

その時歴史が動いた』(2006年8月23日放送)では、故郷ハワイの英雄カラカウア王を演じた。

[編集] その他の活動

[編集] アニメ

[編集] CM

[編集] ドラマ

  • リモート - ボブ加藤
  • さくら - 文化祭の特別ゲストに呼ばれたハワイアン歌手役。ドラマ内でウクレレと歌を披露した。

[編集] 映画

[編集] ラジオ

[編集] 脚注

  1. ^ メタボリックシンドロームの原因となる内臓脂肪の量は少なかったために、手術そのものは平均的な所要時間よりはるかに短く終わった。
  2. ^ NTVで2008年6月に放送した『Touch! eco 2008 明日のために…55の挑戦?スペシャル』内で、300kg台の時には腹部がじゃまになり自分で靴を履くことができず他の人に履かせてもらっていたが230kgになり自分で靴を履けるようになった様子が放送された。
  3. ^ 世界変わる?KONISHIKI 129キロ減量スポーツニッポン2009年7月24日、2009年8月4日閲覧]
  4. ^ KONISHIKI初めて立って歌った!スポーツニッポン2009年7月27日、2009年8月4日閲覧
  5. ^ 途中休場
  6. ^ 角番
  7. ^ 北勝海霧島と優勝決定戦
  8. ^ 旭富士と優勝決定戦

[編集] 関連項目

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最終更新 2009年11月28日 (土) 14:30 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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